ラストウォーク ―愛犬オディー最後の一年
ジェシカ・ピアス (著), 栗山 圭世子 (翻訳)
新泉社
https://www.amazon.co.jp/dp/478771905X/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_U_X9cXCbJAX6DV1
あまり公表していないが、私の家には猫がいる。
いろいろなものに憧れる時期が子どもの頃にはあると思う。
私も小さい頃に「ペットを飼っている家」に憧れを持っていたが
母親は、あまり動物好きではないこともあり、
家には、せいぜい金魚か鳥がいたというような経験しかなかった。
その後、子どもが生まれ、娘が動物好きで、動物を飼いたいということになり、
私の友人が、猫の里親を探す活動をしていたこともあり、猫と暮らすことになる。
娘が家にいる頃は、彼女が世話を一切していたので
私は、ただの同居人だった。
それが、娘は嫁に行き、私の猫に対する役割負担も大きくなった。
改めて
家の中に、人間以外の動物がいて、
しかも、猫ということで、我が物顏で暮らしているその姿をみるのは、色々と刺激になることを感じる。
ご飯も水も、我々人間が上げなければ当然死んでしまう。
トイレも掃除せずに不潔にしておけば、
当然、我々も不快だが、彼らも健康が維持できない。
かなり、我々飼っている側のコントロール配下にあるわけだ。
しかし、多くの猫と暮らしている人たちは、「コントロール権限を持ってる感」では
暮らしていないだろう。
毎日の猫がいるからやらねばならない行為は
「やらねばならない」ではなく、「自然にやっている」行為で
コントロール権限ではなく、むしろ責任感に近い感覚だろう。
そもそも、命と対峙するっていうのはこういうことなんではないかなと
思ったりする。
ちょっと話がそれるが
街で体の不自由な人が目の前にいたら手助けをする。
電車で座ってて、目の前の人が気分が悪そうだったら席をゆずる。
学校でも、職場でも、家族でも
基本的には、自分ができる範囲で補ってあげて、補ってもらうのを
自然に行うのが、人間の本能に近い生き方なんではないかと思ったりする。
私は、おばあさんの荷物を持ったり、席を譲ったり、
気がついた時には手を出していることがある。
人が困ったり、人が争ったりしている姿を見るのが好きではないからだと思う。
「城村さんは優しい」というような綺麗なものではない。
なるべくそうならないシーンを作りたいという願望が根底にあって
自分の負の感情を解決するために行動に出るのだと思う。
で、
私が今猫と一緒に住んでる際の、彼女(雌なので)に対して世話をする感覚も
もしかしたらこれに近い感覚で
彼女が健やかに暮らしていて欲しいのである。
生きるものが、一緒に地球上で生きるということは
当たり前に助け合うことで
その助け合うというのは、私にとってみると、親切とか、優しいとか
そんな感覚ではなく
自分が生きるために当たり前に他者を助けることなのではないかと思う。
「ラストウォーク」は私にとってそんなことを思い出させてくれる一冊だ。
【こんな本】
動物は死を意識しているのか。痛みを感じているのか。安楽死を行うのは適切なのか。行うならどの時点か。
著者が愛犬オディーと過ごした最後の一年の体験を中心に、研究やインタビューなどに基づき、飼い主がペットの老いと死に直面したときの、医学的問題や倫理的問題を考察する。
愛するペットの老いと安楽死の問題にしっかり向き合うために。
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